会社沿革
~1940年代
創業者木村隆輔とパラマウントベッド
パラマウントベッドの創業者木村隆輔は1918年3月、東京の下町で三代つづく酒屋の長男として誕生。うちつづく戦争で家業は廃業やむなきに至りましたが、終戦後、復職した地元の機械メーカーで戦時中に供出させられたままの金属製品の再生ビジネスに取り組みました。パラマウントベッドの歴史は1947年5月、木村隆輔が木村寝台製作所を創業し、こうした再生ビジネスのひとつとして、病院用ベッドの再生を手がけたことに始まります。
当時の病院用ベッド業界は、戦前から需給関係が固定していたこともあり、新味も進歩もなく閉鎖的であったといいます。それだけに木村はアイデアを駆使して優れた製品を開発し安く迅速に供給すれば成功できると考えました。日赤中央病院(現日本赤十字社医療センター)からの新品フレームの大口注文の獲得を機に、病院用ベッドの製造が事業として十分やっていけるという自信を得て、1950年5月、木村寝台工業株式会社を設立すると同時に、ブランド名を「パラマウントベッド」と決定しました。
~1950年代
結核病床の整備とギャッチベッドの開発
結核は、当時「亡国病」ともいわれ、1950年までは常に死亡率の1位を占めていました。死亡率のピークを越えた1955年度でも、結核の医療費は国民医療費の4分の1、入院医療費の2分の1を占めており、こうした中にあって、結核病床は1947年の53千床から1957年の261千床へと約5倍に整備されていきます。パラマウントベッドは、創業・成長時代に結核療養施設の拡充期にタイミングよく遭遇することで、発展の礎を築くことができました。
病院用ベッドは、開発者であるアメリカの外科医の名にちなんでギャッチベッドといいます。戦後、占領軍の払い下げの中古品のギャッチベッドが一時流通しましたが、数が限られているうえ、そもそもわが国の医療事情に適合するものではありませんでした。そこで木村隆輔は、病院を回っては積極的に関係者の意見を聴き、日本の医療システム、日本人の体型や嗜好にあったベッドの開発に取り組み、5種のオリジナル製品を1950年代に開発したのです。
~1960年代
国民皆保険の達成と量産体制の確立
わが国の医療保険制度は、1922年の健康保険法の制定に始まりますが、「誰でもいつでもどこでも安心して」医療サービスが享受できる国民皆保険が実現したのは、1961年のことになります。これを契機に病院の病床は急増し、1960年の686千床から1970年の1062千床へと55%も増加したのです。
こうした状況を背景に1964年、首都圏の千葉県に大規模な工場の建設を決定し、当時の年商相当額の設備投資が行われました。新工場(第一期)は1966年5月に操業を開始。これにより業界で唯一の一貫生産体制による量産工場のもとで、ダントツの生産力を確保することとなります。
~1970年代
医科大学新設ブームと活発な新規参入
国民皆保険の達成で医療需要に拍車がかかり、医療従事者の不足が顕在化。戦後長らく医学部定員が抑えられてきましたが、無医大県解消策により全国で続々と医大が新設されました。この時期、すなわち1970年から1984年までに新設された医大は34に及び、現在80あるうちの42.5%を占めます。パラマウントベッドは、新設医大のすべての付属病院に自社製品を納入し、業界における地位を磐石なものとしました。
1973年に老人医療費が「無料化」され、老人の受療率は5割増加。このほか保険給付の大幅な改善が図られ、この年は「福祉元年」とうたわれることとなります。病院用ベッド業界では、医科大学新設ブームや老人医療費「無料化」を背景に新規参入が相次ぎ、国内メーカーのみならず外資系企業も参入することで、販売競争は過熱の一途をたどります。このあおりを受けて先発組の専業メーカーでは、倒産の憂き目にあう企業も出ました。
~1980年代
病院の病床規制と在宅介護用ベッドの開発
1985年に医療法が改正され、「地域医療計画」の作成が全都道府県に義務づけられます。事実上、病院の新設・増床が抑制されました。これにより、戦後一貫して量的成長をつづけてきた医療供給体制は、大きな転換点を迎えることとなります。この後数年は、いわゆる「駆け込み申請」により病院の病床が急増しパラマウントベッドの業績も急伸しましたが、1992年をピークに病院の病床は漸減しつづけています。
一方、1983年、業界に先駆けて在宅介護用ベッド「アウラ電動ベッド」を開発・上市しました。開発時の基本コンセプトである(1)家具調のデザイン、(2)梱包をいくつかに分け現地組み立て、(3)軽量化、(4)電動式の四点は、現在でも業界標準として定着しています。以後、在宅介護分野においてもパラマウントベッドは、パイオニアとして業界をリードしていくこととなります。1987年にはブランド名であるパラマウントベッドに商号変更し、株式公開を果たしました。
~1990年代
ゴールドプランとヘルスケア市場の開拓
1990年、「高齢者保健福祉推進10か年戦略」(略称「ゴールドプラン」)が始まりました。今後10年間に国が整備すべき高齢者保健福祉サービス基盤について具体的な数値を掲げたこの画期的な施策により、在宅介護が普及し、高齢者施設が増加しました。パラマウントベッドにとっては、まさに追い風となり、1991年に二代目社長に就任した木村憲司は、施設市場を事業の第一の柱とするならば、在宅市場を第二の柱に育てようと社員に訴えかけました。
木村憲司新社長のもとで、ヘルスケア市場開拓のための施策がつぎつぎと打たれ、専任の在宅営業チームが全支店で組織されました。また、新製品開発のプロジェクトチームが組織を横断して結成され、2年後、画期的な在宅介護用ベッド「楽匠」が誕生し、初めて全国ネットのテレビCMを実施。1996年には東証一部上場を果たすこととなります。
2000年~
介護保険スタートと新規ビジネス
2000年4月、「自立支援」、「利用者本位」、「在宅ケア重視」をキーワードに介護保険制度がスタートしました。利用者はスタート時の149万人から4年後には307万人と倍増し、福祉用具のレンタル市場も1600億円の市場規模に成長。その中で、パラマウントベッドは介護保険制度のもとで引きつづきトップメーカーの地位を確保しつづけています。
新規ビジネスとして2003年、「上質な眠りと健康」をテーマに掲げ、新ブランドINTIME(インタイム)を立ち上げ、家庭用高級ベッドの市場に参入。従来の医療や介護の枠にとらわれない領域でビジネスに取り組むとともに、本業との相乗効果を狙いました。